遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします😃 少しでもお寿司の文化を楽しんで頂きたく以前書いた寿司の歴史話を少し改正させました。 自分が持ってる書物などからの話なので実際は違うよと言う点が有ればご指摘下さい。 かなり長いので3部構成になります。 お時間ある時に是非1部から読んでみて下さい😃 すしの話 第3部 江戸時代編 考案した人物は諸説あるが、1番有力、なおかつ、1番の繁盛店を作り、初めて寿司にワサビを入れた人物。 『華屋與兵衛』はなやよへい といわれている。 よへいは1799年に八百屋を営む両親から生まれた。 9歳の頃両親失くし、金貸し屋に奉公。 器用な性格で20歳頃には自立し古道具屋、干菓子屋、等。いくつもの商売を成功させた。 1825年、26歳で現在のような江戸前の握り寿司考案、屋台で開業した。 江戸前の語源はうなぎ屋からきている。 江戸前(東京湾周辺)で取れた『江戸前うなぎ』にちなみ『江戸前すし』を名乗ったのがはじまり。 その後 與兵衛すし 松が鮓 毛抜き鮓 当時の江戸の三大寿司屋が誕生したのをキッカケに江戸のほぼ全ての寿司屋が握り寿司になった。 すし屋の看板で、すし、の『し』の文字が長くニョロっと伸びたのを見た事があると思います。 言葉遊びが流行し、長く伸びた『し』の文字がオバケの伸びた手のようで面白い。 と言う江戸っ子の遊び心から流行したらしい。 屋台のすし屋は現在のファストフードのように2、3個つまんでサッと帰る。5個も食べれば満腹だった。 店の作りは現代とは全く逆で、 客が立って食べ、握り手が座って仕事をする。 昭和初期までは店内でもこのスタイル。 屋台は5人程で満席。繁盛店なら行列もできた。 屋台の仕事は通常1人。 お茶を出し、すしを握り、勘定も一人で。 とても忙しく、お茶は入れ替える手間がないように、とても大振りの湯のみで出された。 食後、残った茶で指を洗い、のれんで拭いて帰った。 繁盛店ほど、のれんのすそが汚れていたそう。 酒を提供する店はほとんどなかった。 当時の人気屋台の金額は うなぎ丼100文〜200文 ドジョウ汁、クジラ汁が16文 すし一個4文〜8文、高いネタで15文程。 やがて人気になったすしは一個50文まで値上がり屋台、出前の店から、店内ですしを提供するようになる。 與兵衛などは格式ある料亭のような店になっていった。 冷蔵庫ができ、鮮度もご馳走との考えからか、一個でも多く売る為か、手間を省くためか、生もののネタが増えた。 順風満帆な與兵衛だったが、天保の改革で贅沢禁止が通達されるも穴子の寿司を握ったのが政府にバレて数人のすし職人と共に投獄される。 1858年、59歳で死去。 時代は過ぎ 関東大震災、江戸の職人が各地に散らばり全国で江戸前握り寿司が普及。 戦後にはすし屋がGHQにいち早く交渉。 客が持参した米と加工賃を払えば、握りすし10個と交換できる店ができた。 飲食店が闇市でしか営業できない時代にいち早く堂々と営業再開。ますます寿司屋が広まった。 経済発展。すし屋は社交の場ともなり、時間を過ごす為、すしが小型化、酒を飲む人も増え、つまみも出すようにもなった。 昨今では手軽な回転寿司も増え、寿司は老若男女、世界の文化のsushiなった。 回転寿司なんか、、、と毛嫌いする人もいるが、進化の途中でとても良いと思う。 次の世代はどんなすしになるのか楽しみですね。